引揚者が戦後を歩み始めた地・舞鶴
「舞鶴引揚記念館は、シベリア抑留などを経験された方々の“自分たちが戦後の第一歩を踏み出した舞鶴”への思いから設立されたのです」
学芸員の最初の言葉から、軽い衝撃を受けた―。日本海に面する京都府北部・舞鶴の港では、1945(昭和20)年から1958年までの間に約66万人もの引揚者を迎え入れた。
1945年8月15日、昭和天皇はラジオを通してポツダム宣言の受諾、終戦を伝えた。今年、多くのメディアが「戦後80年」の特集を組んでいるが、故国の土を踏みしめて初めて終戦を実感したシベリア抑留者にとっては、戦後はまだ80年に至っていない。77年だったり、69年だったりと、人それぞれ違うのだ。
引揚者を「お帰りなさい!」「ご苦労様でした」と歓迎し、お茶や蒸かし芋でもてなす活動を13年間続けた舞鶴市民にとっても、その間は本当の意味での「戦後」を実感できなかったのではないだろうか。

常設展示室の入り口。引揚者を歓迎する岸壁の人々の姿が印象的だ

引揚者をもてなし続けた舞鶴市民。引揚援護局では慰問演芸を披露し(中央パネルの大写真)、東舞鶴駅では茶などをふるまった(右パネルの左写真)
80年代に入ると、高齢に差し掛かったシベリア抑留者たちから「自分たちの戦後が始まった舞鶴に記念館を建てたい」「多くの人が訪れれば、温かく迎えてくれた舞鶴に恩返しができる」といった声が上がり、全国の引揚者や舞鶴市民からの寄付が総額7400万円にも上った。
京都府の補助金2000万円を加え、市が総工費2億4000万円で舞鶴引揚記念館を建設し、1988年にオープン。1万6000点を超える史料が寄贈され、現在は常時1000点以上を展示している。

シベリア抑留者が現地で手作りした箸やスプーンなど。日本人の手先の器用さに加え、量の少ない食事がいかに楽しみだったかを伝える貴重な史料
対ロシアのための軍港が、シベリア抑留者を迎える港に
舞鶴は、東西2つのエリアに分かれる。西舞鶴は丹後田辺藩の城下町として栄えたエリアで、東舞鶴は日本海軍が拠点として整備した軍港「鎮守府」として発展した。
先に設置されていた横須賀(神奈川県)や呉(広島県)、佐世保(長崎県)に続き、ロシアとの緊張が高まっていた1901(明治34)年、日本海側唯一、最後の鎮守府として開庁。3年後に勃発した日露戦争(1904-05)では、予想通りの大きな役割を果たす。そうした地理的背景から、太平洋戦争後は数多くのシベリア抑留者を迎えることになり、舞鶴に上陸した引揚者66万人の約7割、46万人に上る。

五老岳から撮影した舞鶴湾。写真左側、西舞鶴側にある湾口は狭く、写真右側の湾奥にある東舞鶴は要害の地だ

寄贈された引揚船の模型がズラリ。舞鶴には13年間で、のべ346隻の引揚船が入港した
シベリアに抑留されたのは、主に満州や樺太で武装解除した日本兵。ソ連軍は「ダモイ(帰国、帰還)」と声を掛けながら列車に詰め込んだが、着いたのはロシア北東部・シベリアの強制収容所「ラーゲリ」だった。
そこで森林伐採や炭鉱採掘、鉄道建設など、シベリア開発のための労働力として使われた。冬は零下30度を下回る過酷な環境下で、10時間ぶっ通しの屋外作業を強いられることもあったという。

ラーゲリの模型。塀に近づくと四隅の監視塔から銃撃されるが、過酷な生活に耐えきれず、わざと駆け寄り自殺した人もいた
食事は1日2回、硬くて酸っぱい黒パン(ライ麦パン)一切れと、わずかな乾燥野菜や具のないスープのみという収容所も多かった。パンの大きさでいさかいが起こるほど常に飢餓状態で、不衛生な環境も加わり、シベリアに抑留された約60万人の1割、6万人が命を落としてしまう。

ラーゲリでの食事風景の再現。パンの大きさでもめないように、はかりを手作りして均一の重さに切り分けたという
抑留者たちが必死に生きた証
同館が収蔵する数々の史料のうち570点が2015年、ユネスコの世界記憶遺産(世界の記憶)に登録された。
中でもラーゲリでの悲惨な生活と祖国への切実な思いをつづった「白樺日誌」は貴重な史料だ。白樺の樹皮36枚に、空き缶を加工したペン先にすすを水で溶かしたインクをつけて、200もの俳句や短歌を書き記している。1947年に舞鶴に帰還した瀬野修(しゅう)さんが、シベリアから持ち帰ったものだ。
ラーゲリではメモや日記を書き残すとスパイ行為とみなされ、没収された。なんとか免れたものも、引揚船に乗り込む際のソ連軍による持ち物検査や、舞鶴上陸時の米軍によるチェックで、ソ連の内情を伝える資料として取り上げられるケースもあった。
白樺日記は縦9センチ、横12.5センチと手のひらに収まるサイズだったことから、丸めて隠し、持ち歩いたことで奇跡的に難を逃れ、私たちに戦争の悲惨さを伝えてくれる。

80年経過しても色あせない微細な文字。インクやペン先を改良し、必死に思いを書き残したことを物語る
記念館は収容所仲間のアドレス帳、家族に宛てた手紙なども所蔵・展示している。文字にすることで、故郷や家族への強い思いを再確認し、いつ訪れるか分からない「ダモイ」まで耐え続けたのだ。
つらい日常から逃れるためのささやかな娯楽の品も残されている。手作りのマージャン牌は、手先が器用で細かい作業をいとわない日本人ならでは。過酷な生活の中で小さな楽しみを見つけ、生き永らえた人も多かったのだろう。

抑留中に死亡した人の住所などを書き留めた人名簿なども、世界記憶遺産に登録されている
引き揚げの町を有名にした「岸壁の母」
敗戦直後は全国18の港が引揚船を迎えたが、1950年以降は舞鶴港だけとなった。船が入港するたび、全国から集まった引揚者の家族や友人が岸壁を埋めた。
その中には、乗船名簿に家族の名前がなくても、“もしかして”と淡い期待を胸に何度も舞鶴を訪れる人の姿もあった。「息子を知りませんか?」「夫を探しているんです」と下船する人にすがるように聞いて回る女性たちは、いつしか「岸壁の母」「岸壁の妻」と呼ばれるようになったという。

引揚船から小型の連絡船に乗り換え、桟橋に上陸する際の模型。桟橋の奥に並ぶ建物は引揚援護局
満州で消息不明となった息子の帰りを待ち、1950年からの6年間、引揚船の入港があるたびに東京・大森から舞鶴まで通ったのが端野(はしの)いせさん。彼女をモデルにした歌謡曲『岸壁の母』は1954年、流行歌となった。70年代に歌謡浪曲としてカバーされると、じわじわと人気が高まって再び大ヒット。映画やTVドラマ化もされた。
結局、いせさんは息子との再会を果たせぬまま1981年に亡くなった。彼女には最後まで、「戦後」は訪れなかったのかもしれない。

いせさんが書いた手紙や、息子・新二さんの死亡告知書などが展示されている岸壁の母・妻のコーナー

引揚記念公園内にある「岸壁の母」(左)の歌碑。“母は来ました 今日も来た”から始まる歌は、多くの人の心を打った
引揚体験者の声を語り継ぐ町
舞鶴引揚記念館は、開館当初は引揚体験者やその家族が団体で訪れ、年間20万人以上が来館。人口8万人(当時)の小さな市は盛り上がった。
戦争の記憶が薄れるとともに来館者は減り、2010年には10万人を割り込んだが、市がテコ入れ策として取り組んだ世界記憶遺産登録が功を奏し、再び「引き揚げのまち・舞鶴」に注目が集まる。2022年にはシベリア抑留者を題材にした映画『ラーゲリより愛を込めて』が全国上映され、若い世代の姿も目立つようになった。

復元された平引揚桟橋まで足を延ばす人も多い。左奥に見えるのは舞鶴湾のシンボル「クレインブリッジ」
戦争の記憶がある人が高齢化する中で、もう一つの課題は「次世代への継承」だった。市は2004年から「語り部養成講座」を開催し、2011年からは市内の小学6年生の「ふるさと学習」に舞鶴引揚記念館の見学を組み込んでいる。
講座の修了生が結成したNPO法人「舞鶴・引揚語りの会」は現在、市から養成講座の運営を委託され、記念館には常時2人の語り部が待機する。
会代表の勝島勝彦さんは、舞鶴基地に勤務した元海上自衛官で「真っ先に最前線に向かわねばならない立場だった。有事を身近に感じながら、平和を願い続けていた私だから、語り部としてできることがあると思う」と強い使命感を持つ。そして「私たちはガイド係でなく、大変な経験をした引揚者たちの代弁者。来館者が単に史実を学ぶだけでなく、“もしシベリア抑留者だったら”と自分ごと化し、戦争や平和について深く考えてもらえるように努力している」と語ってくれた。
舞鶴は近年、鎮守府時代の倉庫群を活用した「舞鶴赤れんがパーク」や、護衛艦が停泊する湾内を周遊する「海軍ゆかりの港めぐり遊覧船」が人気で、観光地としても注目度が増している。訪れた際には、ぜひ舞鶴引揚記念館まで足を延ばしてほしい。「戦後80年」といった節目やきっかけなどなくても、戦争の悲惨さや平和の尊さについて、常に向き合う機会を与えてくれる場所が舞鶴なのだ。

おしゃれなカフェやショップ、赤れんが博物館に加え、遊覧船のりばもある赤れんがパーク

遊覧船から撮影したイージス艦。現在も海上自衛隊と海上保安庁の両方が拠点を置く唯一の港である舞鶴
舞鶴引揚記念館
- 所在地:京都府舞鶴市字平1584
- 開館時間:午前9時~午後5時(入館は4時30分まで)
- 休館日:毎週水曜日(祝日の場合はその翌平日)、年末年始(12月29日~1月1日まで)
- 入館料:大人400円、学生150円
取材・文・写真=土師野 幸徳(ニッポンドットコム編集部)
バナー写真:ラーゲリを再現した抑留生活体験室





