荒々しく担ぐほど神が喜ぶ
春に豊作を願い、秋は収穫に感謝する農山村の祭りの日、氏神の分霊は神輿に担がれて土地を巡り、氏子たちの真心を受け止める。海辺の町の祭りでは、神輿を船渡御(ふなとぎょ)させることで、豊漁や海での安全を願う。典型的な日本の祭りの風景だ。
しかし、神輿を荒々しく扱うほど、それに乗る神が喜び、霊力が高まると伝わる祭りもある。地面にたたきつけたり、炎に投げ込んだりと、暴れっぷりに度肝を抜かれる「荒神輿(あらみこし)」を紹介する。
石川「宇出津あばれ祭」
(能登町、7月第1金・土曜日)

2025年は7月4・5日開催。7メートルの大たいまつを囲んでキリコが乱舞する
能登半島では夏から秋にかけて、約200地区の祭礼で「キリコ(切籠)」という巨大な灯籠が練り歩く。2024年元日には大地震で壊滅的な被害を受けたが、約70の地区では祭りを敢行し、夜空を舞うキリコで復興に向けたのろしを上げた。
7月初旬にキリコ祭りの先陣を切るのが、半島北部の漁師町、能登町宇出津(うしつ)の「あばれ祭」だ。
この地域では寛文年間(1661-72年)に疫病が流行したため、京都・祇園社(ぎおんしゃ)から厄よけの神を勧請(かんじょう)。祭礼を催すと無事に疫病が収束したので、村人がキリコを担いでお礼参りした。それがあばれ祭りの起源だという。この神はインド発祥の牛頭天王(ごずてんのう)といい、日本神話で最も荒々しい神・スサノオと一体視された。祇園社は八坂神社となり、絶大な神力を持つスサノオを祭神としている。

かつて宇出津では10メートルを超えるキリコが巡行していたが、1921(大正10)年、町中に電線が張られたため、七尾市石崎町に譲り渡した
初日は約7メートルのキリコ30~40基が主役だが、2日目の本祭では真打ちである神輿の露払いを務める。神輿には宇出津八坂神社でスサノオの分霊が遷(うつ)され、キリコを従えて氏子町を巡り、厄災を集めていく。
八坂神社へと戻る道中、担ぎ手は「チョーサ! チョーサ!」と勇ましい掛け声と共に、神輿を倒し、火の中、川の中、海の中へと放り投げる。荒ぶる神は荒々しくされるほど喜び、神力が増すというのだ。傷めつけられる神輿の周りでは、キリコが威勢よく舞って祭りを盛り上げる。
クライマックスではたいまつの火の粉を浴び、担ぎ手らのボルテージも最高潮。神輿を炎へと何度も放り投げ、さらには地面にたたきつけたり、上に乗ったりと容赦ない。
最後に宮入りする頃には、神輿は真っ黒に焼け焦げ、屋根には穴が空いている。どれだけ壊れても、部品一つ一つから毎回作り直すという。その根気強さは、災害からの力強い復興にもつながっているのだろう。
熊本「お法使祭」
(益城町・西原村・菊陽町、10月30日)
阿蘇山西麓の益城町と菊陽町、西原村にある12地区では、津森神宮(益城町)の神事「お法使(ほし)祭」を継承している。当番地区が御仮屋(おかりや)を建てて御神体の「オホシサン」を1年間預かり、神輿に担いで次の当番地区へと引き渡す。12年周期のリレー形式で、御神体の安置場所や行列のルートが変わる大変珍しい祭りである。
さらに驚くのが引き渡しの儀式。次の当番地区へ向かう途中、神輿を道や畑の中へドスン、ドスンと放り投げるのだ。
宮司が壊れ具合を検分し、「まだまだ!」と声を掛けると、神輿は2度、3度と宙を舞い、また大きな音を立ててたたきつけられる。頃合いを見定めて「これまで!」の号令がかかると、次の地区へと引き渡される。そして最後は、ボロボロの神輿を囲んで輪になって踊るのだ。
由来は諸説あるが、津森神宮近くに降臨した神が12地区を1年おきに巡ったとの伝承がある。神輿を荒々しく扱うのは、1年間集落を見守ってくれたオホシサンへの名残惜しさの表れであり、神も感謝の気持ちを喜んでくれるという。神輿の修繕費は100万円近くになることもあるというが、引き渡す側が負担する決まりなので「もっと破壊して、神様を喜ばせたい! でも、修繕費が…」と葛藤することだろう。
滋賀「伊庭の坂下し祭り」
(伊庭町、5月4日)
琵琶湖東岸の滋賀県東近江市伊庭(いば)町は、水路が張り巡らされた「水郷の里」。その水源となる繖山(きぬがさやま、標高432メートル)の中腹に、荒神輿の「坂下(くだ)し」で知られる繖峰三(さんぽうさん)神社がある。850年前から続く、日本で最も険しい岩肌を滑り落ちる神輿の渡御だ。
麓の大鳥居から見上げる参道は、岩肌がむき出しの崖のようで、手をつかずにはとても歩けない。本殿までの道のりは全長503メートルで、標高差は175メートル。このような高所に神社があるのは、天に近いほどより強い神力を授かるとされるからで、神輿を山から下すのは、琵琶湖対岸の日吉大社例大祭(山王祭)にならったと伝わる。
坂下しは、伊庭集落にある繖峰三神社、大浜神社、望湖(ぼうこ)神社の春季大祭の合同神事だ。神輿は祭り前日、繖峰三神社の境内に上げられる。
当日は、神輿の先頭に「初山(はつやま)」という十代半ばの男子が乗る。綱にしがみつき、目を固く閉じ、勇気を奮って神輿と一体になるのだ。途中の「二本松」と呼ばれる難所は、なんと6メートルもの急こう配。伊庭の男になるための度胸試しだ。500キロ超の神輿はごう音を立て、土煙を上げて岩肌を滑る。真っ逆さまに落ちないようにと、仲間が必死に綱を引き、まるでスローモーションのようにも見える。ゴールの大鳥居では地元住民が待ち構え、勇気ある若者たちに大喝采を贈る。乗っていた少年は感涙にむせぶ。
坂下しが終わり、大浜神社に宮入りすると、最後のハイライト「競饗(くらべきょう)」が始まる。饗とは神前に供える飾りで、東西に分かれた若衆2組が競って神輿の元へと運び込む。早く供えた集落に豊作がもたされるため、激しい勝負を演じて神を喜ばせる。

東西対抗のお供え競走。わら製の供物は保護役と呼ばれる年長の氏子が作る
この祭りに参加する者はけがや事故のないよう、子供の頃から年長者に一つ一つ手順を教わる。そして、祭り本番でもまれて成長していくのだ。この縦のつながりは、伊庭の集落を一つにまとめる役割をしている。
※祭りの日程は例年の予定日を表記した
写真=芳賀ライブラリー
















